刈られっちまった悲しみに・・・ 10月7日

Too Much Crazy Hedged Weeping Rosemary!

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@ Home Parking Lot

ローズマリーの生垣風

Too Much Crazy Cut Haunted Wild Ginger!

Too Much Crazy Cut Haunted Wild Ginger!
@ Home Parking Lot

アオイは幽霊

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汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘
・・・・・・・・・・・・

これは有名な中原中也の詩です。

ぼくは中原中也も小林秀雄もあまり知りません。
ただ、ランボーの「盗まれた心臓」を訳した時に、
中也のこの詩と比較したくなりました。

この詩は、「盗まれた心臓」より、
遥かに叙情的・抽象的に読めます。
でも、この「汚れっちまった悲しみ」は、
けっこう具体的な何かのようにも思えます。
リンクした中也のサイトには
汚れっちまった主体は長谷川泰子という読みと
中原中也という読みがあると解説されています。
この詩の「狐の皮裘(ごろも)」(泰子を暗示)
の前には「たとえば」とあり、これで、
泰子ではなく中也が主体だと、ぼくは思いました。

ランボー研究家の宇佐見斉氏が、
中原中也のランボー訳「幸福」が、
小林秀雄の訳をかなり使用していると書いていました。
中也は泰子を、小林秀雄に送りだしたような印象があります。
中原中也と小林秀雄の間に、
汚れっちまった取引があったのでしょうか・・・
そう、ぼくは考えてしまいます。
ぼくは彼らの研究者ではないので、妄想ですが・・・
(「幸福」のぼくの訳はこちら、私訳・エッセイはこちら

中原中也は小林秀雄の創ったランボーの幻影に
蝕まれ、衰弱したのではないたろうか。
そして、あれは、覇権という絶対を求める
時代の狂気  ― les aspirations du moment ―
の仕業ではなかったろうか。

「さらに、ある記念の礼拝とある出来事の中で、
時代の熱狂、または、おれたち自らの重大な悪徳により、
赴かなければならないあらゆる礼拝に。
・・・・・・
どんな犠牲を払っても、どんな姿になろうとも、
たとえこの世ならぬ旅にあっても。
― いや、もはや、「その時」では。」
Dévotion / A. Rimbaud

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橋姫さんの人形展のビデオを掲載しました。

人形は、汚くなろうがボロボロになろうが、
生命を持たないので、汚(よご・けが)れはしない、
それが人形の感じさせる悲しみでしょうか・・・

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